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last updated 1997/05/22

第7話(全130話)

ドクター・ルゥドの話 (1/2)




4 ドクター・ルゥドの話

 ドアに体当たりをするようにして、ピートが家に家に飛び込んでみると、母親のマリイアは
ベッドに寝かされていた。その枕元にドクター・ルゥドが立っている。ドクターは細身長躯の
老人で、いつだって洗濯したばかりのように見える白衣を羽織っている。糊の利いたその白衣
はひとサイズ、ドクターには大きすぎるようで、遠くからだとコート・ハンガーにかけられた
白衣だけがピョコタンと歩いているように見えた。窓から射し込む朝の光をその白衣は眩しく
照り返していて、薄暗い家の中に、そこだけ際立っていた。天使みたいだ。ピートはそう思っ
た。もちろん天使が老眼鏡なんかかけてるわけはないけれど、ピートは天使が母さんを救うた
めに舞い降りてきてくれたのだと、瞬間、思った。白衣が暗がりに光を灯すように、ドクター
・ルゥドは暗闇に沈み込んだピートの心を光の届く場所へ救い上げてくれようとしているのか
もしれない。
 ドクターはマリイアをみつめていた目をドア口へと向けた。そこに茫然とした様子で突っ立
っているピートを認めると、彼はゆっくり体ごと少年に向き直る。ドクターは唇をギュッと引
き結んだ。一本の細い糸のようになった彼の唇を見て、ピートの胸の中に灯った救いへの希望
が萎んでしまう。ピートは思う。あの唇から何かこの世のものとも思えない恐ろしい言葉が飛
び出してくるに違いない、と。
 ひと足、遅かったね。
 それはきっとこんな言葉に違いない。
「母さん、死んだんですか」
 萎んでゆく風船から漏れる空気のような声で、ピートは訊いた。
「何故、そう思うのかな?」
 ドクターが訊き返す。唇は糸のようになったままで、表情はいままで見たことのない険しさ
に染められていた。
「だって、罰だから」ピートが答える。既に罪の重さに押し潰されてしまっているような、そ
んなしゃがれた声だった。
「罰?」
「子供がいけないことをすると、母さんが罰せられるんです」
「誰がそう言った? あの牧師か?」
 ドクター・ルゥドは普段から犬猿の仲である牧師の顔を思い描いていた。あの神の力を裁き
の力だと思い込んでいる男なら、そういうことを言いそうだと思った。しかしピートは首を振
った。
「いいえ、マクファーソンさんです」
「母さんを死に至らしめるほどの悪いことをきみはしたのかね?」
「夜中に家を抜け出しました」
「どこへ行っていた?」
 問われて、ピートは昨夜からの一部始終を話しはじめた。罪を正直に告白することで、奇跡
が起こってくれるかもしれないと期待して。母さんの童話のこと。楡の木に寄りかかって過ご
した夜のこと、額につけた電灯の光に集まってくるオレンジ色の蝶々のこと、そして夜明けと
同時に港へと走り出したこと、雪の女王のこと、港に吹く風のこと、自分と同じ罪を犯してい
たのかもしれないかもめのこと、白い女神に誓った自分の夢のこと。
 ドクター・ルゥドは黙ってピートのとりとめなく続く言葉に耳を傾けていた。そしてピート
の口が閉じられ、それで彼のひと晩の物語が終わったのだと知ると、椅子を引き寄せ、静かに
腰を降ろした。
「船を待っていたと?」
 遥かな地平からかすかに聞こえてくる霧笛のような、どこか間延びした声で、ドクター・ル
ゥドは言った。
「はい」
「夜通し、ただ船を待つためだけに、丘の上に座っていたんだね?」
「はい。だって、あそこからなら町のどこよりも船の汽笛がよく聞こえますから」
「ならば・・」
 言って、ドクター・ルゥドはピートに向かって微笑んだ。夜空の遠くから投げ降ろされる北
極星のきらめきにも似た閃光が、ドクターの口元に弾けた。「ピート、きみのお母さんが倒れ
たのは、きみのせいではないようだ」
「え?」
「きみの犯した罪を贖うために、マリイアは病気になったわけじゃないと、そう言ったんだよ
」「ぼくの罪じゃないって、そういうことですか?」ピートは訊き返した。「でも、マクファ
ーソンさんが」
「子供の罪は親が贖うのだと、そう言ったのだったね」
「子供が悪いことをすれば」
「親に罰が下る。それはその通り、マクファーソンさんは正しいのだよ。だがねピート。きみ
はマリイアに罰を下さなければならないほどの悪いことは何もしとらんよ。きみは世界でいち
ばん大きな船を誰よりも早く見たいと思っただけだ。それは罪ではない。子供というのは好奇
心で飢え死にしかかってるような生き物だからな。それに誰よりも早く、誰よりも遠くへ、誰
よりも高くと、常にいちばんになりたがる。それが子供だし、もしそういう考えが罪だとする
なら、すべての子供が罪人になってしまう」
「でも、母さんに心配をかけました」
 言うピートをそばに引き寄せて、ドクター・ルゥドはその髪をクシャクシャと撫でた。
「どうあっても、マリイアが倒れたのは自分のせいだと言い張りたいようだな」目を細め、ド
クターはピートの顔を眩しそうに眺める。「だがな、残念ながらマリイアの病いはきみのせい
ではないし、天からの罰が下ったわけでもないんだよ。私は医者だからね、こと病気に関して
だけは間違ったことは口にしないんだ。確かに夜中に家を抜け出せば、母親は心配をするだろ
う。だが、例えきみがおとなしくベッドで眠っていたとしても、やっぱり同じようにマリイア
は、きみのことを心配していたさ。布団からお腹が出てやしないか、隙間風が寒くはないか、
怖い夢にうなされてはいないだろうか? あるいはちゃんと宿題はやったんだろうか、学校で
ちゃんとやっているんだろうか、健やかに育っているだろうか、私にピートの成長を助けるこ
とはできるんだろうか。・・心配の種はつきんのだ。それが母親というものなんだよ」
「まるで、ぼくがこの世に生まれてきたことが、そもそも罪だったみたいだ。母さんはぼくの
せいで罰せられ続けてる」

(つづく)




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